昭和48年01月28日 朝の御理解



 御理解 第69節
 「信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする。三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ。日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。」

 みやすいものとも思われませんけれども、矢張りみやすう感じる所まで、信心が身に付いたらいいですね。三年五年では迷いやすいと。是が本当だ信心とはこうだと、聞かせてもろうて、その本当な事だ。そうだろうと思うのですけれども。矢張り神様があぁ教えて下さるんだけれども、ほんなこっちゃあるじゃろうかと、思う様な事が、やっぱりある。まよいやすい。
 けれどもそれがね、十年と続いたらもうそこに確固たるもの。十年の体験というものがです、なるほど神様の御働きというか御教えというか、その御教えの間違いないこと。教祖様は嘘を仰っていないと言う事。また神様の一分一厘間違いない御働きと言う事が、迷いながらでも、本当な所に焦点をおいて信心を進めておらなければ、十年経ったからというて、が心が奉れるようにはならない。
 だから信心とは、本当な所へ焦点をおいてからの成就。それでも三年五年ではまだ迷いやすい。その日その日のおかげを受けていけば立ちゆこうが。みやすう信心をするが良いぞと。私は今日はご神前で、「天の配剤」と言う事を頂いた。天の配剤。例えば地球上に沢山な人間が住んでおります。それに例えば男と女の、バランスが崩れたら困りますよね。やっぱりちゃんと男と女は、一様な人数が出来とる。是は天の配剤です。
 だからこそ私が頂いておる御教えですけども、例えば娘が行き遅れたからと言うて、行き遅れたからと言うて気を揉むなと。売れ損のうたからと言うて気を揉むなと。買い損のうた氏子が必ずあるんだと。買い損のうた氏子がおる。だからお繰り合わせを願えと仰る。しかもそれは神様が、是とこれでなからにゃならんというほどしの間違いなさでです、おかげを下さるのです。
 私の長女がいわば行き遅れて、もう二十七です行き遅れた。いわばけれどもやはり買い損のうとったつがある。娘婿になったのが三十歳です。しかもあちらでも妹さんを、金光様のお宅にやられたり。それから弟さんが東京大、医学の在学中にあちらから、いい人が出来て連れて帰ってきたり、と言う様な事で妹やら弟の方が、先にしよったんで親方の方が貰い損のうとる。その貰い損のうとる所へ合楽に、売れ損のうたつがおったっつが、ぴしゃっとこう一緒になっとる。その何とも言えん事でしょう。
 天の配剤。それを気を揉んで、本当な事をしていないから、本当に売れ損のうたり、又は変な所へ負わせんならん様な事になってくる。天の配剤。なるほど戦争なんかで沢山の男の方が亡くなりました。けれどもです段々ようこうしてみると、やはり女の方がさっさと余計生まれてから、丁度良い具合になるという話です。私共は研究した事ないから分からんけれども。神様の働きちゃそんなに、だから間違いが無いのです。
 本当に神様から頂いてから、ビックリしたんですけれども、私のほうの子供は、士農工商と言う。息子が四人おる。その四人のつが、高校を全部、若先生が普通高校。二番目んとが農学校。三番目んとが工業学校。四番目んとが商業学校。ある意味合いでは、受けた所が出来損のうたから、もう商業なら商業に行ったわけです。出来損のうたから農業学校に行ったんです。けれども出来損のうたその事自体が、素晴らしい天の配剤であったという事が分かるでしょう。
 しかも上からずうっと士、農、工、商と本当に、私是を頂いた時に恐れ入りました。して見ると出来損のうたとか、頭が悪いとかて不平不足を言う事はないのです。神様の御働きの中に素晴らしい働きの中にそうなってる。私共の子供が男女交えて七人おります。娘が長女が娘、息子、娘、息子、娘、息子と、続いた六人。そして七番目んとが息子息子になった。あこれでお終いだなと私は思うた。男と女とがきちっと一様に出来ていくわけです。こりゃもう天の配剤です。
 それに息子ばっかり娘ばっかりち言うのは、どこかちょっとおかしい事もないでしょう。どっかにまた娘ん所に息子がおるからいいでしょうけれども。これは私の心の上に、その天の配剤を感じ。私大坪一家の上に天の配剤を感じる。教会全体の働きの上にその天の配剤を、感じさせて頂けるほどしのおかげを受けておると言う事なんですね。合楽は。いうならそういうおかげの手本を、私は示しておるという感じがいたします。どんなにどこに食うに飢饉の。
 いわば農作物が全滅と言われる様な時であっても、どこにかですそれだけの豊作な所があると言う事です。神様の働きにだから一分一厘間違いのあろう筈はないと私は確信する事。そういう神様のいわば御守護を受けておるんだという、いわば実感というか、そういう神恩報謝の心を持つと言う事。しかも信心とはおかげを頂くと言う事じゃなくて、信心とは和賀心が神に向かうという、それが信心なんです。
 そういう絶対の間違いのない信心の生き方によって、段々信心が進められていく時にです。神様の御働きの間違いのない働きの中に、私共が右に行き左に行かせて頂けるおかげを蒙る事が出来る。天の配剤と言う事を頂いて、例えばそう言う様な事を、私共が知っておるし体験しておる私自信。先日から私歯が口中が腫れてまして、軟い物があったらこの頃豆腐やさんが全然来ない。豆腐が頂きたいなと言うたら、それから何時間後に、ちゃっと豆腐のお供えがきとる。
 思いもかけない人から来てる。二三日前私漬けアミが好きなんです。だからこの頃久しゅう漬けアミのお供えが頂かんから、漬けアミが頂きたいねて言うたら、その場にその夕方チャット漬けアミが来てる。私高橋さん、繁雄さん家内と四人で何時も頂くんです。もう本当に親先生が言いよんなさるのが、神様が聞きござる。誰だって聞きござるとですよ。誰が言うたっちゃ。欲しいというものは、どこにか絶対あるんです。どこにかあるんです。世界中どこにかあるんです。それを集めてくださる。
 昨日なんかニュージーランドから、白い大きな何ていうですか、綿羊羊ですかね、あれの毛皮を送ってきた。こりゃぁこげなつば頂いたっちゃどけ置くかちこれを。こりゃどこに使うかち。と思うごたるですけれども、神様の働きに間違いがあるはずがない。まぁだ分からない。けれどもどこにか神様が使うて下さるはずなんです。間違いがないです。こんなもん頂いてと、だから思う事が間違いです。
 もうこりゃ私は、いろんな調度品道具なんかでも、そげん思うことがある。こりゃどけ使うじゃろかと思いよるけれどもです。だんだん部屋が大きくなったり、沢山になってくると、それでなからにゃならないものが、ちゃぁんと蔵ん中に行けばあるんです。それはちゃんと、何年前なら何年前から用意してある。昨日、南八幡教会の方達から、二人の方から手紙が来ておる。
 もう合楽に行ってから、ビックリした事は、あまり整うておる事に驚いた。例えば部屋の調度品なんかでも、ちゃんとその部屋その部屋に、もう驚いたという意味の事が書いておる。だから驚かんでん誰でも頂かれるとに。ここにこれが欲しいと言う所に、そこに欲しい物がどこにかある。それが天の配剤。そこでですいわばそういうおかげを、私が頂いておる私のの家庭に頂いておる、教会にそういうおかげを頂いておるから、この教会にご神縁を頂かれる皆さんも、そういうおかげを頂いて欲しいと願う。
 そこでどういう信心をさせて頂いたら、そう言う事になるだろうかと。そしたらね御心眼に、西洋料理を作る白い帽子をかぶってね、割烹着を着たコックさんを頂いた。次には日本料理を作る板前さんが、包丁さばきをやっておる所を頂いた。次にはシナ料理の調理人の人が、シナ料理を作っておるという感じの所を頂いた。どう言う事だと思いますか。結局私共の上に起きてくる、様々なお料理の材料と言うか、わが心が神に向かう所の材料が、いっぱいあるのです。
 おかげの頂けれる、受けものを作らせて下さる材料が沢山、神様は下さるのです。ですからやはり折角の、そんな材料を頂いておりましても、、それを調理しきらなかったら出来ん。魚なら魚のいわば生き生きしたのを頂いても、それを扱う事も好かん。料理する事はなお出来ん。と言うなら鯛の活きた鯛を頂いても、お刺身で頂く事も出来なければ、塩焼きで頂く事も出来ん。又はお吸い物にして頂く事も出来ん。見とるだけ扱うとが好かんち言う。起きてくる例えば問題。こげなもんなもう要らん。
 こげな事は嫌と思うような例えばそこに材料を与えられても、それを扱う事も嫌いであるならば、どうも仕方がないでしょう。神様がほんなら鯛の吸い物を下さる。塩焼きにもせろと言うて下さっておってもです。結局私共は日々起きてくる、私共の上に神様が下さる一切の事柄の上にです。その味付け加減一つだという事なんです。それをどう味付けるかと言う所に、天地の親神様がです。
 私共氏子一人一人の上に、氏子幸せになってくれよ、力を受けてくれよ光を受けてくれよ、徳を受けてくれよと言うて、光を受けて下さる。力を与えて下さろう、徳を下さろうとする働きのそういう材料を一杯寄せて下さるのだけれども。そげんとは扱おうごつもなか、そげんとは嫌とこう言いよるもんじゃから、いつまでたっても光にもならなければ、力にもならん。勿論徳にもならんと言う事になるのです。
 なるほ、そういう意味でです、私が一切の事を受ける事を修行だという、信心姿勢を取ったと言う事が、素晴らしかったことが分かります。最近はその全ての事が全部神愛である。神様の御働きだから御の字をつけて、御事柄として受けていけと言う事が、素晴らしい事なんですけれども。それを御事柄として受けると言う事、その事が実は味付けが難しい。分かっちゃおる。合楽にご神縁を頂くほどしの人なら、それをみんな分かっておる。だからそれをいかに味をつけるかと言う事。
 一つのそこに難儀な問題があるとする。それを、例えば有難く受けられない事がある。けれども神様がこれによって力を与えて下さるなぁという頂き方がある。そういう味をつけたい。その難儀という問題に、神様がここに力を与えて下さる為の是は材料なんです。だからいかにそれを調理するかと言う事。シナ料理に使うか日本料理にするか。西洋料理でさっぱりとして頂くか。だからどういう味にかつけて頂ける、頂く所のおかげをいただかなきゃいけん。
 いよいよ神様が大きゅうなれ。大きゅうなれと言うて、大きなおかげを下さる事のために、大きゅうなれと言うて下さるならと思うたら、それを大きな心でそれこそ大空でも眺めさせて頂いておると、心が大きゅうなると仰る。もうどうにもこれに持てないごたる時に、苦しんで神様にお願いをすると、外へ出てみよ大空を眺めてみよ。そんなお知らせを頂きよった事があった。なるほど大空をこうやって仰いでみると、心が大きゅうなる。それをいわば、有難しで受けていくという受け方。
 是が最高でしょう。素晴らしい天の配剤というものがある。私共一人一人の上にあっておる。それをよう生かしきらん。よう頂き止めきらんでおるというのが、いわば難儀の様相ではなかろうかとこう思うのです。そこでそれにいかに味をつけるかと。これをどう調理しようかという、姿勢を作らにゃいかんです。問題をそこに見た時にです。そしていうならば、神様がどういう味をつけたが一番喜んで下さるだろうかと、一遍矢張りその材料を前にして、まず考えて見なけりゃいけん。
 そしてあぁ使おうこう使おう。こういう味を付けようという、是一つに絞る以外にはないと言う事。ですからそこん所を、信心は見やすいものじゃがと言う事は、その様に実はみやすい物なんです。そういう生き方。そしてそういう生き方がです、この様に素晴らしい一分一厘間違いのない働きを受ける事が出来るんだという、体験を積んで行く所にです。なるほどそういう生き方をです、三年五年続けていっておるうちにです。
 中々それがそういう素晴らしい答えになって出て来ない様な時には、矢張り三年五年では、なるほど迷いも起きてくるであろうけれどもです。そこん所を辛抱しながら、信心の稽古をさせて頂いておる。そういう本当の姿勢をとって、本当な事に取り組ませて頂いて、稽古をさせて頂く信心が、十年も続いたら確かにわが心が奉れる。わが心が拝めれる、私はおかげが受けられると思う。
 まぁいうならばここでは、皆さんにこういうことを聞いてもらう。そのためには私がまぁひな形ながら、こうやって頂き現しておる。ですから自分はまだ頂けんのだけれども、親先生は頂いておられる事実があるのだから。だから親先生の言うことを本気で聞かせて頂こうという気になるところにです。例えていうならば売れ損のうたっちゃ、気をもむことは要らんばい。しっかり信心ばして行きよんなさいち言うたら、「はい」て言うたら良いわけなんです。
 それを「はい」と言わずに言う事を聞かずに、自分勝手な事をするから、いつまでたっても、神様を体認する。なるほどそういう間違いのない神様を頂きながら、間違いのない神様として現す事が出来ない。これでは十年二十年経っても理屈は同じ事。迷うたりいうならば、迷わじゃったりと、信心をやめきらんという程度の信心で終わってしまわなきゃならん。そういうところの、一つのコツと言うかね。
 そういう受け方というのが身に付いてしまう時にです。それはなるほど見やすいものであるという事が分かる。自動車の運転を、ただ乗っとるだけで、自動車が動くと言う事はない。あの機械を使いここはこうせんならんと言うことが分かって、実際自動車が動かせれるようになって、もう走れるようになって運転免許も貰うて、さぁ運転免許を貰うた人に、自動車は難しかですかて、言うても難しいとは言わんでしょう。
 気安いもん自分の体の一部のようにして、自動車を使うでしょう。もう信心と言うものが、自分の生活の一部の中に、入ってしまうということ。なるほど、そうなった時、初めて、信心はみやすいものじゃということが分かるのです。どうぞ信心がみやすうなる。それにはお互い、まず天の配剤の事実をね、先ず知らせてもろうて、そういうおかげを頂かせて貰うための姿勢というものをです。
 作らせて貰うて本気で、その問題問題にお取次ぎを頂きながら。如何に味をつけるか、如何に頂くかと言う事に焦点をおいたら、それでいいのです。そこから本当の意味での信心の稽古が出来るんですね。だから信心の稽古が、楽しゅうなってくるです。なるほど、親先生のおっしゃる通りしとりゃ、こういうおかげが受けられるという体験が生まれてくるから有り難う、楽しゅうなってくるわけですよね。
   どうぞ。